ブログを移しました。
スマホの画面で見ると不便が生じてきたのでhttps://anq39.com/ に移動しました。
鳥海山は何度目だろうか。近年は登山口を変えて一昨々年は湯ノ台コース、昨年は矢島口から登った。鉾立から登るのは2009年以来11年振りになる。この時は初日に月山に登り、遊佐のキャンプ場に泊って、翌日鳥海に登ったのだが、テント場の夕食時、菊水を飲み飲み調理してくれたIKさんがふつか酔いとなり、吐きながら登ったことは印象的であった。吐きながら登るという文字通りの覇気を発揮したのは2005年8月にAKが朳差に登った時とこの時しか目撃したことがない。若かった彼らを讃えたい。さて、今回は登って登らないノボラーズの担当、頂上は無理なので鳥海湖が望める御浜小屋までと決めてゆっくり、楽しんで登ること第一義。結果、頂上ピストンなら余裕がなくて通らない長坂道、吹浦道の一角を回り道できて、そこがハクサンイチゲに覆われていた。
海を背に登ると長い雪渓登りが始まった。
御浜小屋に着いて昼食にしていると頂上新山までくっきりと見え始めて。
そして帰途は鳥海湖を見下ろすコースへ。するとハクサンイチゲの花畑が満開で迎えてくれた。登ってノボラーズ冥利に尽きる光景。
チングルマも負けじと歓迎
感激の鼓動のまま雪渓を下りました。
ピークハントばかりが登山でない。これがノボラーズの真骨頂。どんな山にも体力に見合ったコースがあるのが登山の魅力と再認識した山行でした。このあと、道の駅ねむの丘で地魚丼とアイナメのガラ汁。遅くなって食堂が見つからずコンビニで夕食の定番から脱したのも時間に余裕があってからこそ。
ここで生まれてここで死んでいく、光兎の麓。初めて登ったのは中学校の学校登山。雨具が必携だとは母に言えず、持ってこなかった者として前に立たされた嫌な思い出で始まる山だが、33歳、家に戻って最初に登った山でもある。この時は天気の悪い文化の日、急に思い立って昼近くに出かけてほぼ駆け足で帰ってきた。それから厳冬期に何度か行ったが登頂できず、残雪期が中心になったが、ブナはいつでも美しい。そしてヒメサユリの山でもある。何年か前、そのヒメサユリを目的に公民館の登山で登ったが、花期を外した上に天気予報も外れ、参加した少女のズックは泥んこ、蛭に喰われて足は血だらけ、全く申し訳ないことをした。昨年ガイド本の依頼でヒメサユリの写真を取りに来たのは6月6日、満開に咲いた日で、今まで経験と情報から6月第一週が早く咲く年でも遅い年でも開花したヒメサユリを見る確率が最も高いと判断した。ところが下見に登った前々日4日の開花状況は2割、たった二日でどれくらい咲いてくれるだろうかと不安はあったが、ただ天気予報だけは良かったから、前回の二の舞だけは免れるだろうと。
美しいブナの中を通るきれいな道は魅惑的に蛇行して登る者の心を躍らす。
咲いた数は少ないが確かに咲いていて安心する。
下山の時の頂上からのこの景色もとても好きだ。
登山当日、暑さも下見の時ほどでなく、朝の心地よいブナ林を行く。
雷峰から先1時間が急登だが、本峰の全貌が見えたことで登頂意欲が高まる。
ヒメサユリの向こうに最後の急登に向かう姿が見えるでしょうか。
高温だったせいか2日の間にほぼ満開になって我々を迎えてくれた。泥だらけ血だらけの少女の思い出もだいぶ癒されたことだろう。
頂上まで正真正銘あと一息!
平田大六さんの山座同定。彼ほど人間的魅力に溢れた人を見たことがない。不世出の登山家でもある。この人が政治に関わったのが不思議だ。
三月には先頭で下るざるを得なかったが、この景色を見るためには最後が一番良い。先憂後楽の気持ちに似ている。
あのとんがりが雷峰。右の平地が女川郷、左が関谷、そこを通る女川と荒川が合わさって朴坂山と高坪山の狭い間を抜けて海に向かうのだ。大蛇はこの狭戸を塞いで洪水を起こせば、この村々は水の底に沈むと思った。夫のことも娘のことも、そうすることで忘れられると思ったのだと私は風に語るのだ。
5月さえ終わろうとしている。
いつもは連休の最中、目につくようになるタニウツギの花の桃色、藤の花の紫、桐の花の紫。今年は遅いと思っていた連休明けにはタニウツギを見つけ、藤を見つけ、桐の花も咲いていた。咲いたのを見れば、ずっと前から咲いていたようで、ただ見つけるのが遅かったように。
5月は片付けばかりしている。仕事から帰ってから、あるいは休みの日に。このままにしておけないと思って始めて、それを買った時の事などを想像しては手が止まる。そんな想像ができる自分が処分しなければと、また手を動かす。母は突然だったし、父には余裕が無かっただろうから。
パッキングしたままのザックが目に留まって、中身を出したらスコップやアイゼンやダウンの冬山装備。4月29日の朝のまま。朝起きたら異常に腰が痛くて、なんとか階下には降りたが、顔を洗うのに腰が曲げられない。迎えに来てもらって集合場所まで行ったが、今度は車から降りるのさえ一苦労の様を見て中止となった。連休の山もコロナで中止で、ザックは木六山のための準備のままだった。
連休中、山には行かなかった。だからタニウツギの花にも藤の花にも桐の花にも気付かなかったのかもしれないと。
親しかった友達が死んで、父が入所した4月。
イギリスに赴任して一度も戻らかった彼が、末期の癌と分かって、30年振りに戻ってきたのが昨秋。僕のブログに連絡欲しいのコメントをしていたのに気付かず、二回目のそれに気づいたのが3月。大学に7年いて、5年共にした数少ない親友のひとり。真剣に作家を志した仲間。メールでやり取りできたのはわずか2週間。
週初めに電話があって、その週の金曜には入所になった。バタバタとした前後が過ぎて、今は少し気が抜けたような気持になっている。その父にも面会はできないし、2月の末から母にも面会できていない。
もう少し気付くのが早かったら、もう少し入所が早かったら、大阪まで顔を見に行けたのに思っているこの頃。
日本平山、信仰の山とは思えないがにほんだいらさんと読むらしい。この山には2008年4月27日に早出川ダムから入り、途中撤退(早出川の読み方も本当ははいでなのだろうがはやでとルビを振る本もある)。翌月18日に自然の森から入って頂上に立っている。この時は途中の大池の浮島で遊んで4時間半で着いているが、それを参考にしたのが間違いで、締まった雪の上の数日前に降った雪が足かせとなり時間が掛かり、指呼の距離まで迫りながら登頂を断念した。
駐車場には二台の車、多いのよりも、また全然無いのよりは良い。「葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり」釈迢空。
途中から積雪、数日前に山は雪だったか、固まっていないので抜かる、滑る。
整備されてはいるがアップダウンの多いこのコースは長丁場。
先行者のトレースを辿って只管歩く。
浮島のある大池はまだ雪の下だった。
奥山を徘徊する登山人二名。晴天をありがとう。
まだまだ続く雪の尾根。
頂上は左奥。30分掛かかれば往復1時間、ここまで掛かった時間を考慮すれば日没前に戻るにはここが限界と判断。
飯豊を見ながら両手を回して帰るのであった。「やさしかった 夢にはぐれず 瞼を閉じて 帰ろ」
朝は閉じていたカタクリが咲いていた。
「星屑分けて 町を離れて 忘れない 花のかずかず」は三橋美智也の「星屑の町」でした。
今書いている小説を連載することにしました。そうすることで、遅々として進まない筆を速めます。また、読者の希望も入れた発展ができるため、人気作家になる勉強もできるでしょう。一石二鳥、失うものは未知。この物語は前半ほぼ実話、後半は一匹のオッドアイと呼ばれる左右の目の色が違う猫から天啓を受けた主人公私の変貌を描くファンタジーです。今日掲載するのは前半の5分の一くらいです。まだまだオッドアイは出てきませんが、前半に伏線があるので精読してください。
オッドアイ・Tの猫とその一味
私が中学生の頃、隣の叔父の家で犬を飼い始めた。どこからかもらってきた中型の黒い雑種だったと思うが、玄関に繋がれた犬を飼い主以上に可愛がったのは私の母だった。飼い主より母に慣れて、二年ぐらいで一袋のドッグフードをつけられて私の家に貰われてきた。それが私の家で犬を飼い始めた始まりだ。隣に来た嫁を取ったみたいなもので、私は面白くなかった。母はそれ以前、野良猫を飼いたいと言った小学生の妹の願いを聞き入れず、外で鳴く子猫の鳴き声を聞きながら一晩中泣いていた妹に対して自分がなにもできなかった恨みもあった。そんな母がよその犬を取るという行為が我慢できなかったのだ。それにこの中型の黒い犬には「まり」という名がつけられていて、それも気に食わなかった。誰にも言わなかったが私はその頃デビューした天地真理に魅かれていたからだ。横取りした犬をさすがに母は大事に可愛がった。畑仕事は常に同伴、集落内を世間話に行く時もそうである。ただ、ついでに連れて歩くという感じで犬の散歩はメインではないが、大事にしたことは確かだ。この犬は高校生の頃死んで、毎日母が畑仕事に連れていった隣集落との境、斜面の畑の一角、キューウイの棚の下に葬られた。犬の名の書かれた手作りの墓標と石が置かれた粗末な物だったが、お盆の墓参りにはそこにも母は回った。このあと、父は隣の町のホームセンターから犬を買った。茶色の中型、買ったものだから雑種ではなかったろう。この犬には近くの家の人がジョンという名を提案し、そのままジョンになった。ジョンは父母に可愛がられ幸せに前半生を過ごしたが、後半は母の気紛れで不幸が訪れた。集落を徘徊していた野良犬を母が飼い始めたからだ。いずれ保健所の人が捕えにきて殺処分だろうとたまたま帰省していた私が脅かしたせいもある。野良犬の身分で集落内をうろついていた時期からジョンとは仲が悪かった。素性の知れない犬が家の周りでうろつくのを見れば、血相変えて吠えるのは犬として当たり前なのかもしれない。その犬が正々堂々と自分と同等の身分に昇格して、飼い主の愛情を同等に受けることになったのだから、犬の度量でその感情をコントロールできるものではなかったろう。この野良犬には既に仔もいて、合わせて二匹が外で飼われ、それまで昼は外、夜は家の中で過ごして自由を満喫し愛情を独り占めしていた犬は、結果散歩以外家の中にいることになった。野良犬から昇格した犬が飼い主に甘えたような声を聞くたびに、嫉妬の炎はごうと燃えて、狂ったように大暴れした。障子を何度も壊し、家の壁のあちこちに大きな穴を開けた。東京で十二年暮らした私が帰ってきた時、二階の一番奥の私の部屋の床の間の壁にもかきむしって空けた穴があり、その前にテレビを置いて三十年が過ぎている。野良犬時代から野良と呼ばれた親子はそのまま「野良」という名前を変えられず、野良の親、野良の仔の方、と区別されて呼ばれた。私のような文学青年は野良と聞くと「人形の家」を思い出す。主人公ノラは自立を目指して家を出たが、不幸なジョンは時々家を脱出しただけだ。脱出しては外の親子に喧嘩を仕掛け、二対一で分の悪いジョンは獣医、仲裁に入った母もどさくさに手を噛まれたりして度々医者通いをしていた。その修羅場の様子をその頃には東京から戻って家に居た私は何度も聞かされた。そして不幸な半生を終えたジョンもまたキューウイ棚の下に埋められた。残った親子は気兼ねない生活を謳歌していたが、母によると却って親子仲が悪くなり、時々噛みつき合う喧嘩をしたそうで、母はまた手や時には足も噛まれたりしていた。多分、共通の敵がいなくなったことで連帯感が薄れたのだろう。そんな親子も母が倒れた翌年の春先、相次いで死んだ。私が東京にいた頃、祖母死んでひと月も経たないうちに祖父が死んだように。
そして、今度は私が新しい犬を買ってきた。たまたま半額になっていた犬を見つけたのだ。私が結婚しなかったため、犬がいなくなれば寂しい、新しい犬が来れば寂しさも紛れるくらいの気持ちだったと思う。真っ黒な豆柴に父は熊五郎という名を付けて可愛がった。「熊五郎」はやがて「クマ」と省略させて呼ばれ、犬の登録票もその名になっている。父はクマを溺愛し、一緒に寝ていた。だから、母の倒れてからの年月とクマの年齢はほぼ一致する。母は寝たきり十三年、当時生まれ半年位だった犬もそれ位の年齢だろう。なぜ半額だったか、それはだいぶ経ってから分かってきた。
しかし、母の介護をする父も、年とともに衰えてきて、朝夕の犬の散歩の夕方の方をTに頼むことになる。Tが猫の餌場を私の家の作業所にしたのはその頃からだと思う。
Tは同じ集落に住む従弟だ。私の知っている限りでは、若い頃から引きこもりで、ちゃんと仕事に就いたことはない。母と二人暮らし、猫を飼っていたが、その猫が増えて、猫同士の仲が悪くなり、仲間外れで怪我ばかりしていた猫の避難所をわが家の作業所としたらしい。社会から遠ざかっていったTは小さい時から動物好きではあった。初代の「まり」の時代から代々馴染みで、無聊な時は犬の顔を見に来て、徒に頭を撫でつけていた。無職になってからは一層そんなことが日常であったので、父は散歩をTに頼んだのである。
散歩の半分をTに委託してから、更に父は体力を失くした。クマに引っぱれて転んで怪我をしたのを教訓に四輪の台車を使用した。台車に犬の紐を括りつけて散歩する姿を私は良く二階から眺めていた。木工の仕事の運搬に使っていた台車は頑丈であった分重かったので、自由に動かしづらかった。私はその四隅に蛍光色のテープを巻いて遠くからでも運転手に目立つようにした。しかしいずれそれを押して歩く体力にも陰りが生じ、家を出てすぐの田の畔に腰を下ろして先ず一休みする。台車は三輪車になり、そしてシニアカーになった。シニアカーは電動であったので、今までにない遠方まで犬を連れて行くことがあったが、その時代も長く続かなかった。
Tは小さい時からナイーブな男だった。父親は頭の良い人間で村会議員などもした名士ではあったが、酒癖が悪く、Tが思春期を迎える頃はアル中となり集落を回って酒を請うような為体、そんな父親を恥じ、益々内向的になっていったように思う。私が家を離れ東京で暮らすようになってから何年かして、そんなTが高校を中退したことを知った。貧しさもまた人を消極的にする要因になる。私は浪人の身でありながら復学するよう手紙を書いた。Tは復学したそうだが、その後のことについては詳しいことは知らない。遠くに働きに出て長く家を離れるようなことはなかったと思う。いつのまにか家にいて、ニワトリを飼い、猫を飼い、よその犬を無暗に撫でる毎日。Tのことを思うとき、頭が良い悪いなんて人生の幸不幸には関係ないと思う。必要以上の繊細さは重荷になるだけだ。
母の介護にも限界が来て、母は施設に預けることになった。私は三人分の朝食作りが二人分となったが、自身のことも全うにできなくなった父の介護も少しずつ始まる。ひとりで風呂に入れなくなったので、週三回のディサービスに行くことになり、毎朝の食事もベッドまで運ばないといけなくなった。そして胆嚢炎になって胆嚢の切除手術と入院で体力が更に衰え、退院してからは自力で排尿できなくなって、フォーレ(尿道留置カテーテル)をぶら下げることになる。陰茎に管を入れ尿を排出させ袋に溜める装置で、寝ていても自然と尿は出るが、色々と不便なことも多い。一番大変なのは時々詰まること。それから一年半後、今度は胆管炎で入院、そして寝たきりとなって家に戻ってきた。父が寝たきりとなって、私の生活も一変した。猫と私という観点で云えば、それまで曖昧にしか知らなかったTの猫の全貌を知ることになり、猫と私の関係が変化した。
時々施設から戻る母のベッドを置く部屋と、寝たきりとなった父の部屋のために、家の中を片づけはじめ、片づけた荷物を取りあえず作業所に運んでいるうちに作業所が溢れ、作業所を片づけ始めた時に、現実をまざまざと見ることになった。それは累積した糞である。新旧、古い物は固形化し風化さえ見られ、新しい物は臭い立つ。顔を顰め、しばらくその累々たる様に呆然とした。その状態は二階も同様で、糞便を片付けるのに丸一日を要した。作業所は元々農作業のための別棟である。昔はここで脱穀をし、稲刈りと脱穀を一度にする機械、コンバインが使われだしてからは大型の籾の乾燥機がここに設置された。また、出稼ぎの替わりに木工業を始めた父はここにいくつもの機械を並べて作業もした。私が地元に戻って働く頃にその木工業から手を引き、母が倒れてから農業も止めることになったので、作業所は使われなくなり、Tの猫の餌場となっても支障はなかったのだ。Tは毎日ここに餌を運び、猫たちはぞろぞろと作業所の奥から出てくる。この光景を見ただけでも餌場はつまり住まいであることは一目瞭然だが、管理人が常駐しない住まいはつまり排泄場になることまでは知らなかったのである。動かせない大型の木工機械の裏の排泄物も片付けて、物置になった作業所から不要な物を軽トラに積んで、小一時間掛かる隣の町の処分施設に何度か運び、こんなさっぱりしたところに脱糞はしないだろうと高をくくっていたのだが、残念なことに猫には私の志は通じず、生々しい物を発見する日が続いた。そしてある日、人から聞いた猫忌避剤を通販で大量に買って、作業所の至る所にその白い顆粒を万遍なく撒いた。これが反猫の狼煙を上げた日である。果たして効果のほどは、と帰宅してから覗いてみると、猫が白く撒かれた忌避剤の上でのんびりと寝ていた。
未曾有の少雪で、「残雪に咲くマンサク」は29日では遅すぎた感があった。もともとは湯蔵山を計画していたが、雪が少なければ藪漕ぎになる。朴坂山も高坪も今や一片の雪も見えないのだから。遠目で見てまだ雪の残っている牟礼山にしようかと見に行ったが、去年の12月同様、道路にバリケードがあって、まだ車を通していない。それもバリケードの数を増やしていた。私らのような者がいるから増やしたのだろうが、教育委員会の行事だからこれを無視はできない。あとは光兎山、15日は下見のつもりで登ったわけでなかったが、2週間も経てば雪もだいぶ消えて、雷峰直下のトラバースだけロープを張れば大丈夫だろう、きっとマンサクも咲いていると、光兎山に決めたところにまた雪が降った。少し遠いが五頭、二王子なら危ない所はないがと思案しながら、ぐるっと周囲の山々を見回して飯豊、朝日以外でまだ白い所があるのは葡萄鼻だけ。それで急遽26日の午前中綿野舞さんに同行願って下見に行った。午後1時半から会議あるので急ぎ足の下見。ただ天気だけは保証されていた。
数える位しか登ったことが無い山は行った時の事を良く覚えている。最初はひとり、立烏帽子から藪を漕ぎ藪を潜って木立の中の頂上に着いた。見晴しは悪いとは聞いていたが、悪いのでなく無い。また道は無いとも聞かなかった。行ってきたと言うと「道無かったろう」と横山さんは初めて言うのだ。二度目はその横山さんの案内で立烏帽子を通らない積雪期のルート、三度目は綿野舞さんとスキー、ボードを担いで登った。雪のある時期二回とも山スキーをする高橋賢吉さんに会った。同級ではあるが山の大先輩であり、この山を冬の遊び場にしていた。その高橋さんも横山さんも故人となった。そして四度目が今回の下見である。
マンサクも確かに咲いていた。
後ろに朳差岳
浮世と同様天気もままならない。朝のうちに上がるはずの雨が残ってポツポツと降る中での集合、歩き始めれば小雪さえちらつく様子、着込めば暑い脱げば寒いで登り始めて3時間、なんとか無事に積雪期しか眺望の無い山、葡萄鼻に着いた。
《どうだ!この日のために気合の坊主頭、降りかかる雪は情熱で溶かすぜ!》
まだまだ帽子は要らないぜ!遅い奴はストックでつっこすぞ!ありゃりゃ、いつの間にやらおいらがビリだ!
尾根の急登り、落ち葉の上の新雪はいたずらに滑る。
ここら辺からマンサクの花。
標高が上がり寒さが増した。坊主頭にゃへっちゃらだが、耳が冷たい帽子を被る!
「どうしてあんなに手を振るのだろ」佐野元春を思い出すぜ!
頂上で昼食。帽子はいいぜ、ダウンもいいぜ。なぜかおいらは背を向ける!
下山前に集合写真。おいらはどこだどこにいる。いつの間にやら真ん中だ!
あとはひたすら下るのみ。
どけどけどけ!とろとろ歩くやつは追い抜くぞ!
ふう、まあまあいい山でした。
俺は見なかったがと前置きしてから、自分が小さい頃天然痘が流行り、新保の旦那が罹って関の医者まで行く時、長い棒を振り回して、俺に近づくなよと言いながら歩いていったと聞いたことがあると父は言った。尿袋の尿をバケツに移しながら聞いていたので、適当に聞いてたが、その尿をトイレに捨てるまでの間に面白い話だと思い、関まで歩いていったろうかと聞いてみた。下関の医者まで新保からなら10㌔以上あるし、病気でそこを歩くのは不自然な気もしたし、昔は歩くのが普通だったから、やはり歩いたのかと思ったりもした。「んだ、旦那だんが、リヤカーにでも乗っていったろが」と父は言う。リヤカーだとすると、引き手が棒を振り回すことはできないから、やはり乗った旦那が振り回さないといけない。そうなると、棒の効果は半減する。ディサービスに行く父に服を着せて体温を書いた紙を渡してから家を出たが、やはり歩きながら棒を振り回す姿が面白いと思った。そして文学青年の定めか、闇の中を長い棒を持って突っ走る話が出てくる梶井基次郎の小説を思い出した。
毎日のコロナのニュースが父に昔のことを思い出させたのだが、そのコロナのために体育館は使えずバドミントンはできない。ただドームの走路だけは村民だけ使用可能なので、がんばって走ってはいる。バドミントンと云えば、トレイニングラケットを買って、暇さえあれは振り回している。普通のラケットの倍の重さで、これで素振りをして筋トレするのだ。これを振り回し、あるいは壁打ちで使ってから普通のラケットを持つと羽のように軽い。軽く振れるからスピードも速い。そしてこのトレイニングラケット自体さえ,そう重く感じなくなる。え、これトレイニングラケットと見返す時もある。2月16日の山北大会の最終戦で5点差をつけてマッチポイントを迎えながら、最後の2本を自分のミスで負けた悔しさを忘れないで、このトレーニングラケットさえも羽のように感じれるまで振り回そうと思っている。暗闇を走る時の棒のように。
換気抜群の山だけはコロナとは無縁だが、一番張りきっている綿野舞さんが都合で8日の二王子も15日の光兎山も来られなかった。いずれも申し分の無い天気で、綿野舞さんが一緒でなかったのは残念だ。
今朝、いつもより若干早く家を出ると通勤する義明さんを鉈打峠で追い越した。追い越し際にクラクションを鳴らすといつも片手を挙げて応えてくれる。綿野舞さんが言うように、井伊直弼が暗殺されてもバルチック艦隊を撃破しても、義明さんはいつもどおり自転車で峠を越えて仕事場に行く。
綿野舞さんは前日になって都合が悪くなり、和幸は後発して追うという知らせ。今年の雪の少なさは前例なし。ここ十年は夏よりも残雪期に登ることの多かった光兎山だが、この少雪が上でどんな状態なのかと若干不安を持って登り始める。
ところが雪が降り始めて、でもとてもきれいで。予報は晴れ、特に昼頃は全き晴れの予報。
虚空蔵峰の登りで積雪が始まるが太陽は輝き始めて。
観音峰に到着。夏山ならここで半分だが、木立に透けて見える雷までの急坂、そしてその後ろの本峰、光兎までは更に急登、雪の具合はどうか、石山さんの顔に不安無し!
観音峰から一旦鞍部に下りて、後ろに本峰が控える雷峰に向かう。
硬かったり柔らかかったりして不均一な雪質の急斜面
雷峰直下の登り 。後ろは左が湯蔵山、真ん中が元光兎。
雷峰到着。ここでようやく本峰光兎の全貌が見える。 アイゼンを履いてアタック開始。
本峰への直登。後ろ、真ん中に尖ったのが雷峰。
頂上直下、あと一歩。
後発の和幸も遅れて到着。
朝日連峰の雲が取れてすっきり見えてきた。
雷峰まで来てほっと一息。
あとは「星屑の町」を歌いながら帰るばかり。暗くなる前にと大急ぎで。
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