具の無い冷やし
人は自分の経験や境遇でしか物事を考えられない。三浪してようやく大学にうかったとき、高校の時の友達に手紙を書いた。すごいなとかいう返事を期待したが、四つの学部に合格しても実際入学するのは一つだから三つの学部で君が合格したために行けなくなった人がいることになる、というような事が書いてあった。極く田舎の雑貨屋の長男だった彼は、美術の学校に進むことを諦め京都の方の画材屋に勤めながら勉強していた。弟を進学させたことを知ったのは後のことだ。これもその頃、同じアパートに住む同じ年の大学生はカレーなんかを作った時に私を部屋に呼んでご馳走してくれた。たまにはお返ししなければと私は考え、冷やし中華を作ったのだが、その冷やし、当時30円位(今は60円位)のマルチャンのインスタント冷やしラーメンで、私としては当たり前だったのだが、袋に入っている汁とゴマだけを掛けたものだった。彼は一応全部は食べたが「こんななんにも載ってない冷やし食べたの初めて」とだけ言った。私の倍以上の仕送りのある裕福な家の育ち。お店で出てくるような金糸卵とかチャーシューとか、メンマとか鳴門とか、そんな物が載っている冷やし中華を想像して食べに来たのだろう。私もそうだが、人は自分の境遇と経験に縛られて生きている。母の料理もそういうことだ。ご馳走なんて呼べる物は作ったことがなくて、良くて魚、煮物なんて作っても大きな容器に入れて置くだけ。私が今毎朝運ぶような食事を母はたったの一度も作ったことはないが、それは具のない冷やししか作れなかったのと同じ。
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