大きな魚
大きい川の中にいる。深みに大物がいるのを見たが、ヤスを持っていないので捕れない。そこにヤスを片手に水眼鏡を掛けた男がやってきたので、そこに大きいのがいると教える。彼は水中に潜り、出てくると片手で一メートル位の魚を抱え、片手に持ったヤスにも同じくらいの魚が突き刺さっている。その大きさに俺は驚くが、さらに周りに人が四、五人も立っていて、やはり大物を抱えている。しかし、その魚、いずれも今捕まえた様でなく、既に死んでいて動かない。そのうちの一匹は細い竹を鰓に刺した形で掲げられ、おまけに全体黒く焦げている(昨日のバーベーキューでI副会長が焼いたホッケに酷似)。彼らは俺にまだ魚はいると言い、後ろにもいると言うので振り返ると、一メートルくらいの魚がゆっくり泳いでいるが、その背中は一か所割れ、全身も傷ついている。産卵を終えた鮭のようだ。ふと、俺は何をしにここに来たのかと思い、そうだマラソンに出るために来たのだと夢から覚めたように思い出す。時計を見ると四時半前後で、もうとっくにレースは終わった時間。「ああ、俺、マラソンに出るためにここに来たんだった」と大きい声を出すが、魚を持った連中は無関心。「(マラソンに伴う)様々なイベントに見とれているうちに本業を忘れてしまって」とひどく後悔(この気持ちは浦島太郎に通じるものがある)。申し込んだはいいが、ろくな練習もしなかったので怖気づいて出ない、そんなふうに思う人もいるだろう。実際そうなら仕方ないが、できるだけの練習はしてきたのに、と悔やむ。そういえば前回のマラソンもイベントにうつつを抜かしている間に終わってしまって走らなかったのだ(こういう事実は現実にはない)と思うと更に切なくなってくる。いつの間にか川から上がってテーブルの前、そこには焼いた魚があって無料らしい。傷ついた鮭のイメージと重なって決しておいしくは見えないが、せめてこれでも食べていくらかでも元を取るかという気持ちになる。でもレースに出なくても記念品はもらえるし、と魚は食べない。
浪人一年目の受験、その最後は早稲田の教育だったが、往生際悪く明け方まで勉強していて目が覚めたらとうに開始の時間になっていた。そういう記憶がこういう夢を見させるのだろうか。何カ月も準備したマラソンの当日、会場まで行ってスタート時間を忘れてしまうんてことは現実にはあり得ない。それが夢の不思議か。あるいは、人生そのものに対する私の気持ちの反映かもしれない。
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