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2010年3月10日 (水)

チーズ竹輪

 こちらに戻ってから何かの用で東京に泊まりがけで行く機会があって、高田馬場の駅前、大正セントラルホテル?に泊まった夕方、暇でもあり懐かしくもあって早稲田の方に歩いてみたことがあった。どこまで歩いたか、多分思い出に押し潰されそうになって、すぐ引っ返してきたような記憶もあるが、戻ってくる時一軒の小さな酒屋に目をやると、そこのレジ用小さなテーブルの前で二、三人のいかにもサラリーマン然とした中年の男たちがワンカップを呑んでいた。ソーセージみたいな物を齧りながら黙々とコップを傾け、目の前に座っている店の主人と思われる老人と何かを語る風でもない。そうまでして呑みたいものかな、と思った記憶がある。確かに安い金で酔えるとは思うが、なにか惨めな、みっともないというか、みみっちいい、というような印象を持った。
 これと連想して新潟にいる時の自分の事が思い出される。塾を辞めてからだと思うが、遅い時間に新潟駅のホームで電車を待つ時、キヨスクで缶ビールとチーズ竹輪(竹輪の穴にチーズが入ったもの、多分一本百円程度)を買って呑むようなことが度々あった。ホームのベンチで酒を持っている人は結構いるので、思い切ってそれに倣ったのだが、これがすこぶる美味い。なんというか、一日が終わったという安堵感を早く味わえるというべきか、待ち時間が苦にならないというか、最初はなにか後ろめたさみたいなものもあり人の目も気になったが、だんだん慣れてきて缶コーヒーを飲むのと変わらなくなって、短時間に飲むので急激に酔いが回る感じも悪くないのである。
 それで、今どうも自分ながら納得できないのは、こういう経験の後、馬場の酒屋の光景を見て、なぜ「みっともないとか、みみっちい」なんて感じたんだろう。「ははん、やってるな」と思った方が自然のような気がする。酒屋と駅のホームの違いなのだろうか。夕方の山手線の駅のホームなんて人でごった返して、さすがにそこで酒を呑むわけにはいかない、だから酒屋で買ってそこで呑んでしまうのだろう、という事まで推測できなかったのか。ちょっと解せない。
 でまた、追記だが、酒屋、ここでいう酒屋とは酒を売る店、酒の小売店で酒を呑ませる店でないわけだが、ここに戻ってきてから地元でもそういう酒屋で近くの人が夕方になると集まってきて呑んでいるという話を聞いた。で、そういう場面を未発表というか、不採用の小説に書いたが、その時僕は以前の事を思い出していたかどうかは分からない。

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