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2010年4月20日 (火)

曽祖父と祖父と

 父に確かめないまま私の記憶の限りで書くので概ねの事だが、大正年間に曽祖父は富山県の入善町からここに入植してきた。今の羽越線岩船駅からここまで、借りたリヤカーに荷物を積んで運んだという。想像し難いが、一日は掛かるだろう。明治31年生まれの祖父も一緒、家族何人だったかは父にまた聞いてみたい。曽祖父は開墾の権利を持ってここに入ったが、途中で資金不足となり、大手のK開墾会社に吸収されている。そのK会社が行ったのがいくつもの隧道を女川右岸に掘って水を引き、この河岸段丘を灌漑する事業だった。一昨日行った江浚いがその新堀用水である。だから祖父は曽祖父の頓挫と開墾事業の逐一に初めから関わった人間で、戦争が終わってK会社が撤退すると、用水の中心的な世話人として働いていたらしい。その祖父のもとで働いていたのがAさんで、会う度に聞かされるのが昭和42の水害の時のことだ。祖父と二人で被害を調べに用水を遡上していき、その甚大さにAさんが来年の米はできないと弱音を吐くと、そんな気持ちでどうすると恫喝されたという話。普段温厚な祖父が鬼のような形相になったという。例年は8号前後の、もっと下流の隧道の江浚いが充てられ、休憩している時に見回りにきたAさんからその話を聞くのが恒例だったが、今回は帰途、用水を歩きながら、当時跡形もなく土砂で押し流されたという現場を見ながら聞かせてもらった。
 なお、曽祖父は百姓というより事業家で、祖父の残した資料の中には、曽祖父が上越の方の鉱山開発にも手を出し、その失敗で多額の負債があったような記録もあった。郷土史家で元上司のT先生は幼児にその曽祖父を見た記憶があり、髭を生やし馬に乗って颯爽と闊歩していたという。しかし、女川に掛かる柴橋(柴で作った粗末な橋)からその馬ごと落ちて、その怪我が元で死んでいる。それがいつのことかも父に聞いてみよう。

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