バカ、煙、カメムシ
車にザックを積み込む時に重さを量ったら25㌔あった。これ以上増やしたくないので一眼のカメラは持たないことにした。それから風呂に入る。朝早くて風呂に入る時間がない時だけ前の日に入ることにしている。風呂場のタイルの上でカメムシが仰向けになっていたが、もう裸なので、とりあえず入浴剤の袋に誘導して乗せて、風呂場の隅っこに移動した。窓から放り投げてやればいいのだが、窓の冬囲いはまだ外していない。前から風呂場で安逸を貪っていた二匹のうちの一匹だろう。最初戸惑いからか警戒心からかじっと置かれた場所を動かなかったのだが、ちょっと目を離すと壁を登り始めていた。そしてまたじっとしている。ふと見るとまた更に上にいる。ホールドの無い垂直の壁をいとも簡単に登っていく様子を、石鹸が目に入らないように薄目を開けて見ていたのだが、あんな風に登れたらすぐにオリンピック候補だなと思った。そして天井まで登ったカメムシを見て、バカと煙は高い所に登りたがるという言葉を思い出し、カメムシもその部類だなとは思ったが、明日高い所に目指す自分らも同類だとも。
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コメント
「間に合うかもしれない」という歌が吉田拓郎にはある。
今、この曲を聞いた瞬間、若い時を思い出した。いつも、季節は秋だったのだけれど、仄かな希望がこの歌にあるような気が
していた。間に合わないために生まれてきた人が存在するはずがないとする信念は、季節が長い冬となり、中学生だった感性が否定されることとなる。せめて、でくのぼうになり、間に合わなかったと笑って言ってみたいものだ。青春が秋の予感というのは、残酷なこと。仏様に土下座をすれば、神に悔い改めると宣言すれば、救われるのだろうか。でも、友に問いたい。
投稿: 残酷な拓郎 | 2016年5月 4日 (水) 01時32分