古町
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これも以前書いた事だが、また思い出したので書いてみる。中学の時、村上に行こうという話になって、その四五人の輪の中に僕もいて、多分自分だけ行かないという決断もできず、行きたい気持ちもあったのだろう、行くことになった。放課後のことだが平日ではない。平日ならバスで往復する時間はないし、大体バスがそんなに走ってない。土曜日か、夏休みの部活の後だろうけど、鞄に入れたまま出し忘れていた学習雑誌の代金を使ってバス代にしたのだから夏休みということはない。それでみんな一旦家に戻ってから、午後のバスに最寄りの駅から乗ることになった。午前と午後、二三本しかないバスだから、乗り遅れることはあっても、別のバスに乗ることはない。家に帰っても村上に行くから金をくれとは言えなくて、その雑誌、多分「中三時代」とかいう本の代金を袋から出して持っていった。どうも理解できないのはこのいきあたりばったりの行動で、後で困ると分かり切っているのに、どうしてこんなことをしたのだろう。どうしても行きたくて、後からどうにかごまかせると思ったのだろうか。それで村上に行って、今は寂れてみる影もないけど当時は一番賑やかな商店街の、三階建てのショッピングセンターみたいなところに入った記憶がある。多分五百円くらいしか持っていなかったのだろう、バス代往復を払えばいくらも残らないから何が買えるはずもない。だから、あちこち見て回る気持ちは端から無くて、結局階段の踊り場に置かれていた自動販売機で紙袋を買った事は鮮明に覚えている。構造は思い出せないが、小銭を入れて束になった紙袋の一枚を自分で引き上げて取るような機械だった。その中に持ってきた道具、なにを持っていったのか忘れたし、持っていく物も必要ないはずだが、確かにその袋の中に持っていた物を入れて、それでなにか買ったような恰好にしたのである。でも、やはり不思議なのは、なんで何も買えないと分かっていながら村上に行ったのだろう。約束したからとかいうほどの約束でないし、僕がそのバスに乗らなかったからといって支障があるわけでもないだろう。単にみんなと一緒に村上に行きたかったのだろうか。
帰りは最終バスで、多分暗くなって、親には雑誌代を使ったことも言わざるを得なくなって、ひどく叱られた。小さい時の自分の心理は今と同じだと思う時もあるし、全然理解できない場合もあるが、よくよく状況を思い出していくとなんとなく分かる気もする。
幸せの延びしろというのは、あんまり変わらなかったというくらいの意味だ。本当のところ、昔も今も。いろんな希望や不安を抱え、周りに気を使いながら生きている。
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小学校の時、筆と絵の具を入れる、パレットが付いたプラスティックの箱を買ってもらえず、絵を描く時は肩身の狭い思いをした。妹は習字のセットを持たず、中学生になっていた私がまだ小学生の妹に貸してやると、そのまま学校に忘れて、翌日授業のある私に怒られ、朝早く起きて取りに行ったことがある。胸の詰まる思い出のひとつ。これも「じぇん、ねえ(金が無い)」が口癖だった母親のせいで、兄妹は必要な物も買ってくれとは言えなかった。なぜかそのことを仕事帰りの車の中で思い出して、気が重くなった。あの頃は家を新築するために大変であったのだろうが。
そして、F集落の脇を通る時、畑に苗を囲ったビニールが立ち並んでいるのが目に入った。植えたばかりの野菜の苗の根が付くまで、肥料袋の底を切って筒状にして広げ、四隅に棒を立てて風除けにする。母もそういうことをしていたと思う。畑仕事が好きで、田の仕事以外は畑にいた。暗くなるまで戻らなかったと。
同じ日の帰途のこと。
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新潟への出張、時間に余裕がなかったので珍しく高速に乗った。片側一車線、人が沢山乗っているように見えた前の車、どうも人ではなく荷物だと分かってきた。それで、昔私の家にも来ていた「富山の薬売り」を思い出した。彼らもこんな風に普通の車に荷物を沢山載せてやってきた。年に一回とか二年に一回とか、私の家に置いてある自分の会社の薬箱を点検し、使った分の代金を貰い、補充していくのである。薬箱は四つも五つもあったから、四人も五人も毎年来たことになる。その中には私の家に泊まる人もいた。どういう条件(料金)で、どういう接遇(食事)をしていたかさっぱり分からないが、そういう人がいたことは確かだ。おそらく家の者が食べるのと同じ貧しい食事であったろう。その頃の母の吝嗇さについては書いたことはあるが、その四つか五つある薬箱の一つにテープを貼って開かないようにしてあるのがあった。その薬売りが負けないので今後一切その箱のは使わないというのだ。一円も負けないと言って怒っていた。富山の薬売り、全国歩けていいなとは思うが、こんな主婦の家もあるから、いいことばかりでもなさそうだ。100円でも負けて、立派なお庭とお家ですねと言っておけば喜んでいるのにと。思い出して嫌な気持ちのする記憶のひとつ。
IM先日は夜分すいませんでした。結局リモートサポートセンターにお世話になって今ようやく直ったところです。
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25歳で死んだ若者の死を思うにつけ、人生をどういう意味でも全うできる者の義務とは何だろうと思う。不平を言うな、不平を言うくらいの余裕があったら少しでもやりたいことに力を注げ、かもしれない。そう言えばと、昔のことを思い出した。ここに32で戻った翌年、新潟の塾に勤めたが、そこは高校受験に失敗した子供たち、高校浪人の予備校でもあった。彼等は週五日普通の学校のように弁当持ちで授業を受ける。ひとクラス50人で4クラス位あったと思う。僕は成績の良いクラス二つを受け持っていた。ただ、夏休みになると普段よりも遠い地域から夏期講習に大勢の中学三年が集まるので、この4クラスのためだけの授業はなくなり、彼等はあちこちの教室に分散されて夏季講習のクラスに入る。そこでいつもは教えていないクラスの浪人生を教えた。風紀担当の先生に目を付けられていた生徒、つまりツッパリで、入学当初は髪も赤く染めていた。その先生とぶつかった話は自然に耳に入ってくるので、直接教えたことはないが知っていた。その講習で見た限りは、意外と無口で、可笑しければ素直に笑うような、普通の子に見えた。講習の最後の日、後ろの席の浪人生たち一人ずつになにか感想のようなものを聞いたことがあって、その生徒がちょっと恥ずかしげに「安久先生の授業が受けられて良かったです」と言った。もちろんそう言われて嬉しかったが、この生徒の豊かな感受性も思った。けれども彼は2学期の授業が始まってすぐ、バイク事故で死んだ。バイクの後ろに乗っていて、そのバイクが路駐していたトラックにぶつかったと聞いた。若い人間には色々の可能性がある。潰えないうちに潰えてしまうのは残酷だという気がする。生きていれば36歳。どんな死もどんな風に処理してよいか分からない。だから背負っていくのが生きる者。
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風邪をひいて薬を飲む時思い出す言葉がある。どうせ悪くならないと治らないんだから飲むだけ無駄だ。こういうニュアンスの言葉だったと思うが、そう言っていたのはSさんだ。一旦風邪に罹ってしまえば、咳をし鼻水を出し熱も出して、ひと通りの諸症状を経過しないと回復しないと言って薬は飲まなかった。市販の薬が高いこともあるし、飲んで症状がピタッと止まるわけではない。けれども僕はやはり薬を飲み、Sさんは飲まない主義を変えていないだろう。割り切りのいい人間と、そうでない人間。これはもうどちらがおもしろいかでなく、楽かの問題のはずだが。
立ち止まるべき時まで立ち止まらない意義を彼等は知っている。知っていて、できない人間もいる。
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会話の中の言葉をずっと覚えている。例えば睡眠時間についてなら「五時間寝ると楽ですね」と言ったのは、学生の時バイトでしていた夜警。デパートの夜警を六年半続けたが、この仮眠時間は四時間で、正味三時間半だろうか。ある時、郊外での催し物の夜警をすることになって、この時の仮眠時間が五時間あった。それで一緒に泊まった上司に言った言葉。バイトの翌日はいずれかの時間に(授業中は特に)眠くなるが、五時間眠れば頭もすっきりして眠気無く一日を過ごせる、そういう意味合いだったと思う。
インテリなら10時間は寝たいとも言ってきた。実際10時間も寝ると頭が痛くなるが、頭を使う人間なら睡眠時間はたっぷり欲しい。和光市のアパートで、同宿のT大に行っていた男が「10時間は寝たい」と言っていたのをなぜか覚えていて、多分僕もそう思ったか、10時間寝られる彼の呑気な生活を羨んだり、その逆に思ったかしたのだろう。彼は特に頭の使うような人間でなかったので、まあ睡眠は楽しと云うことだろう。流行りの芸能人がよく平均睡眠時間三時間なんて言うけれど、これは頭の要らない仕事をしている証拠なんだろう。人形に似たりで、実は毎日24時間寝ている。
4当5落と云われた受験戦争もあったそうだが、「この頃5時間でいいようになった」と浪人の時Kに言ったのを覚えている。Kというのは一緒に和光市のアパートで浪人生活を始めた高校の同級生。三四ヶ月で僕は近くのアパートに移ったが、一週間に一度はSさんのアパートに集まっていた。けれどこの五時間という睡眠時間が長く続いたわけでなく、浪人生活が長引けば分かることだが、睡眠時間を削らなくても時間はたっぷりある。試験が近付いてきて、今までより勉強するようではだめだということ。
これは以前書いたが、東武東上線の朝の通勤時、その年の春から勤め始めたような連中が何時間寝るか話題にしていた。ひとりが七時間位と言うと「七時間も寝たら頭腐れないか」と言うやつがいて、顔を見るとやはり頭を使ったことのない顔をしていた。浪人の時私はこういう人を「人生の覇者」としていた。世界は単純でいい。
僕が高校の頃ミシンの内職を始めた母の睡眠時間は三時間とか四時間だったろう。階下のミシンの音は寝る時も止まなかったし、まだ暗いうちからし始めた。多分そのお蔭で浪人もできたし留年もできた。
以前父は眠ることが一番楽で楽しいみたいなことを言っていた。張り合いの無い、他に楽しみの無い生活だからで、夏なら七時を回れば、冬なら五時過ぎには床に就く。けれどずっと眠っているわけでなくて、夜中になれば眠れないまま本を開いているようだった。この頃は悪い夢ばかりを見ると言い、薬を飲んでいる。
晩酌をやめたせいかもしれないが、日の短くなったこの頃でも七時頃まで母の部屋にいる。
いくらでも寝られる生活よりは、そうでない生活の方が良いということかもしれない。
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「清兵衛と瓢箪」の少年が瓢箪に夢中になったように、僕も鉢植えに夢中になったことがある。平日は早起きして朝食まで。そして帰ってきてから夕食になるまで。休みの日は一日鉢をいじっていた。その頃盛んにやっていたのは寄せ植えで、ひとつの鉢に何本もの木を植えるやつ。休みの日は近くの山に入って小さな木を掘ってきては鉢に移していた。目指したのは鉢がひとつの山のように、雑木林のようにみえるような、様々な木がある寄せ植え。欅、楓、橅などの良くある寄せ植えの木に限らず、なんでも採ってきて植えていた。百、二百と鉢の数が増えていくと、毎日の水やりが大変になってきたのを覚えているが、そのうちこの熱も冷めて、多分パチンコばかりする時期になったのだろう。
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広告のテレビは品切れ、取り寄せだと言われて何日かすると、入荷したという電話があった。テレビのことは何度も書いたが、この家を離れていた時期でテレビを持ったのは上板橋に住んだ頃、オリンピックがどうしても見たくて中古のテレビを買った時だけ。多分ロスアンジェルスの大会、瀬古がいつもの調子で走り、これは優勝するぞとSさんは興奮したが、後半になってペースダウンしたレースだった。オリンピックが終わっても、テレビがあればテレビを見る。部屋の明かりより先にテレビを点ける自分にあきれて、間もなく捨てたのだが、昔はストイックだったと思い出すのはこの一件である。18から36歳までほとんどテレビを見ないで過ごしたので言えるのだが、どうしても見なければならないテレビはない。情報は新聞を読めば十分で、見れば見るほど馬鹿になるのはテレビだというのは変わらぬ自論だ。だから僕はその顔を見ればどれくらいテレビを見ているか大体分かる。その顔を裏切るような言葉も出てこない。
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東上線の和光市に五年住んでいたし名画座の文芸座もあったので池袋には結構思い出がある。これも前に書いたような気もするが、今朝風呂に入っていてなぜかまたふと思い出したので書いてみる。北口から南口に抜ける地下道が駅の外の東側にあって、地下道といっても、山手線や私鉄の線路の下を潜る半地下というべきなのかもしれないが、その出口が半地下だから緩やかな坂になっていて、ある日そこにハーモニカを吹く、かなりの年齢の男の人がいた。盲目であったことが僕の足を止めたのか、身なりが薄汚かったことがそうさせたのか、僕はしばらく立ち止まって聞いていた。古い歌謡曲とか童謡とか、そんな類のメロディをずっと吹いていた。僕の他に誰も立ち止まるような人はなくて、だから僕も少し離れて立っていたような気がする。突然演奏止めたかと思うと「すいません すいません」と彼は言い出した。僕が近付く気配を感じるとお酒が飲める所に連れていってほしいと言うのであった。僕が案内したのは牛丼屋で、そこでお銚子を一本か二本吞んだろうか。今でも良く覚えているのは、彼の手の傷で、完治していず、抜糸もしていない状態であった。また、小さい時別れた姉を探しているとも言っていた。そして酒の代金を払ってやると、今日はいい人に出会って良かったと何度も繰り返し言った。僕に言うというより独りごとのように言ったその言葉が忘れられない。僕でなくても僕の友人なら僕と同じことをしたと思う。少なくとも僕はそんな友人としか懇意にしてこなかったつもりだ。でも長く生きてくると誰もが僕と同じ行動は取らないと分かってくる。だから彼も今日はいい人に出会ったと言ったのだ。けれど、それは生き方のスタイルみたいなもので、良いとか悪いとかでなく、好き嫌いに属する範疇。性善説とか性悪説でもいいが、それも終局スタイルで、ただ僕が好きか嫌いかだけのことなのだが。「あれを持ってたら うー付き合いたい」忌野清志郎的に言えば。
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