戒めのため

2015年12月 9日 (水)

揺すぶられる唇

 君が夜勤に就く頃、私はМ歯科の椅子の上で、上唇を摑まれ、上下に引っ張られたり左右に揺すぶられたりしている。口の開け方が悪い、これでは治療に支障を来すと怒ってМ医師は患者の唇をそうするのである。患者は口を開けたまま頷くだけだ。こんな指導は面白くないけれど、治療を途中で投げ出すわけにいかないので、黙って頷くしか方法がないのだ。太宰は自死し梶井も啄木も若くして病死した。むしろ辛く悲しいことが多かった。私たちの怒りはすべて自分に不都合な他人の行動が対象だ。少し上等なら理想的でない自分自身。私は両方なので最低の部類で、だからこそ、その罰としてなんの罪もない私の唇は人気の無い町医者の指でもって上に下に、そして左右に揺すぶられる。

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2015年6月18日 (木)

真に大人の運動

  我々登山人はどうも他のスポーツをなめている。ずっと格下に見ている節がある。その根拠は明白である。ちょっとした不注意が死を招くことがある登山は、常にイノチガケの真剣勝負であるからで、ちょっと躓いたり、足を滑らせたりしたために死んでしまうような運動は他にない。だからおっちょこちょいの子供には向かない。それで小学校や中学校に登山部はないのである。つまり、登山だけが思慮分別のある大人だけのスポーツと云える。云わなければならないだろう。他は多少おっちょこちょいの子供でもできるスポーツというべきだ。登山人が登山を他と次元の違うスポーツと自負するのはうべなるかな。

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2015年2月 2日 (月)

知らないのは幸せの証

 日曜日スノボーのスクールに入った。土日の天気は悪く、山にも行けず家でぐだぐたしているよりましかと予約したのだが、土曜の夜から風はますます強くなって、中止の電話が来ないかと期待する気持ちにもなっていた。ひとりでは心細かったのでYも誘ったのだが、ボードに関心は皆無のようで、にべもなく断わられた。天候のせいか、生徒は三人、運動音痴に見える主婦と若者、スクールに入ったところでどうにもならないだろうと優越感に浸っていたのは最初だけ。始めてみると私も二人と同程度で、水の上の玉に乗る如く転びっぱなし。それどころか時々私よりうまく滑る。滑るというか転ばない。そうするとなんだか焦って、落ちこぼれ感が出てくる。昼食を挟んで午後も受講したのは私ひとりで、午後には半日コースの別の若い女の子が入ってきた。彼女の方はターンをもっとスムーズにしたいという目的があって、私のように初めてリフトに乗る人間と一緒に教えるのは無理があるのではと内心思ったが、腹を決めてがんばった。がんばった結果、褒められたことは一日コースを受講した体力。そして確かにマスターしたのはボードの履き方。以上である。渡辺さんには大変申し訳ないが、熊野岳からの滑走、ご一緒するにはあと1シーズン掛かる。

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2013年11月26日 (火)

生半可な知識は浅はかな結論を導く

  赤城山の帰途の車中で、冬至の話が出て、日本の中でもより東に位置する地域は暦が冬至と定める日より早く実質的な冬至(一年で最も日照時間の少ない日)が来るという僕の考えが全くの見当違いであると分かったので、ここに訂正しておく。当時はつまり太陽と(やや傾いている)地球の公転の関係で起きる現象なので地球規模(北半球)で起きる、ようだ。生半可な知識で浅はかな考えを持つことの戒めとして、赤城の山の光景とともに心に留めよう。
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2013年3月 7日 (木)

優しさ

 どういう気持ちで、ここまで歩いてきたのだろう。それを思う事。

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2013年1月 5日 (土)

全部見た

 迎えのバスが遅れるほどひどい吹雪の日の葬式だった。父母の写真に置き換えてみる。そして自分に。いずれ必ず来る日。幼馴染の頭は禿げているか極端に薄くなっている。考えても仕方ないことと、考えておかなければならないこと。
 今日は晴れた。昨日休んでできなかった仕事があるので公民館に行き、それから村上のムサシに向かう。水道が一ヶ所凍ったままなので、水道に巻くヒーターを買った。帰りにパルパークで走るつもりでいたが、夕食の支度に間に合わない時間になりそうだったので、走らずに帰ってきた。久しぶりに青い空を見た。
 全部見た。気高いものも、醜いものも。美しいものも厳しいものも。全部見たから。いつ生まれても、どこで死んでも。

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2012年11月21日 (水)

どんなぼろでも

 どんなに歌がうまくても、仕事が満足にできないなら、馬鹿にされる。歌がうまいことさえ笑いの種になる。それが世間だ。だから歌手になればいい。好きなことに一生懸命になれば自ずと道は開けるものだ、たとえ歌手になれなくとも。
 どんな襤褸でも乾いた物は有難いと知るのが人生だろう。

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2012年9月 8日 (土)

タオルハンカチ

今日だけは天気は持つようだ。朝から日射しが強い。今日だけでも天気が良いなら、山に行けば良かったと思うが、今さら遅い。せめて、気になっていることを片付けようと思っている。
  そのひとつはハンカチのアイロン掛け。洗濯したものをそのまま押し込んでいるので、引き出しに溢れて閉まらなくなっている。ハンカチのことは何度も書いたが、色々の理由で60枚前後はあって、半年に一度くらいまとめてアイロン掛けをしていた。しかしこの頃は、アイロン不要のタオル地のハンカチを使うことがほとんどで、めったに綿は使わない(失礼、いずれも綿で、いずれも布には違いないが、ペタッと薄いのを綿と呼称させてもらう)。そのめった使わない綿が溢れてきたわけだから、随分とアイロン掛けをしていないことになる。ハンカチは唯一私がアイロン掛けできる物。だから唯一のアイロンの使い途ということになる。
 この頃はタオルハンカチばかり使っているといったが、数年前まで、少なくとも資料館に勤めていたころまでは、このタオルハンカチを嫌っていた。特に男性が使っているのを見ると「なんだかダサいな、オカマか」みたいな気持さえ抱いた。ところがどうだろう、この頃は、これでないとどうも、みたいな気でいる。これは戒めである。嗜好は変わるという。だから他人の嗜好については非難がましいことは言わない方が良い。タオルハンカチの長所と短所
◎①水分の吸込み量が綿より格段に多い②アイロン掛けしなくてもしわくちゃにならない。
×①かさばる(公民館に来てからジャージなので、ポケットに入れてもそんなにゴロゴロしないが、大きめのやつだとすぐポケットから出して机の上に投げ出して置くので、トイレに行った際に入っていないということがままある。

 

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2012年1月13日 (金)

雪洞で

 太郎が海から戻った時 僕は眠れないでいた 
 夢から覚めれば夜は長くて寒いだけで
 思い出す度帰らなければと思ったが なぜかすぐ忘れた
 忘れるようにしたのかもしれない
  けれども亀が長生きで良かった
 ちゃんと帰り道を覚えていた
 一夜を千夜のように千夜を一夜のように過ごした時間を抜けて
 僕は雪洞の中で夜の明けるのを待ち吹雪の止むの願ったが
 誰も自分を知る者のない海辺の
 覚えがあるのは波の音だけ 
 亀を助けた報い 
 そっと
 時間を戻す

  

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2011年11月10日 (木)

俚諺は

 夜中、目を覚まして、とりかえしのつかない不孝を思うことが多い。因果が分かればと思うが。
 俚諺の多くは失敗した者の発想だ。親の意見と茄子の花は百にひとつの無駄もない、とか。実感できる人には意味がない。
 人には親切にした方が良い。親切にして後悔することはないから。それが今の心のバロメーターにもなるし、平静を取り戻す契機にもなる。そういう意味でも「情けは人の為ならず」
 昨夕どーむに寄ると、翌日の行事のため使用ができなかった。練習量を落とす時期なので、坂町には行かず、そのまま帰ることにした。こうなると昨日走っておいて良かったと思う。夜の会議が始まる前の空き時間、どうしようかと迷ったが。走れる時に走る。登れる時に登る。山ばかりは確かに逃げないが。

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