歌うのは希望だけ

2020年5月10日 (日)

2020年4月のこと

 親しかった友達が死んで、父が入所した4月。
 イギリスに赴任して一度も戻らかった彼が、末期の癌と分かって、30年振りに戻ってきたのが昨秋。僕のブログに連絡欲しいのコメントをしていたのに気付かず、二回目のそれに気づいたのが3月。大学に7年いて、5年共にした数少ない親友のひとり。真剣に作家を志した仲間。メールでやり取りできたのはわずか2週間。
 週初めに電話があって、その週の金曜には入所になった。バタバタとした前後が過ぎて、今は少し気が抜けたような気持になっている。その父にも面会はできないし、2月の末から母にも面会できていない。
 もう少し気付くのが早かったら、もう少し入所が早かったら、大阪まで顔を見に行けたのに思っているこの頃。
 

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2020年1月 4日 (土)

正月三日

 2日の一晩だけ母を戻してもらった。昨年の正月は大晦日から戻ったが、父も寝たきりになってみれば、一晩がせいぜい。四ヶ月ぶりの家だが、施設だと思ってか、私が食事を出すのを見て、手伝いに来たのかと言う。それでも三食とも出した物すべて食べた。食欲旺盛なのはありがたい。おむつの中に手を入れて排泄物に触って汚物まみれになる。施設でも時々そうやって余計な面倒を掛けている。盆に帰った時も一度それをやり、今回もそうだった。怒っても呆れても仕方ない。お湯をいれた洗面器をベットにのせて爪にまで糞便の入ったその手から洗う。全部着替えて、シーツも替えて、その始末に小一時間も掛かる。介護制度は本当に有難い。でなければ、ノイローゼにもなり、無理心中もするだろうことは容易に想像できる。叱っても仕方ないが、叱らないのも難しい。叱れば「殺せっちゃ」と寝たきりとなった当初さんざん繰り返した言葉を言う。「んめば殺せば俺が刑務所入んねばねねが」と以前は言ったが、今は「俺が刑務所入れば父ちゃん誰面倒みらん」。すると「んだの」と簡単に納得する。分からないのは、尊厳を失いながら死に近づいていくこと。それとも、端からは惨めな姿でも、そうではない、自然の摂理なのか。

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2019年10月10日 (木)

またひとつ持病

 木曜夜のクライミングの翌日から肩、背中が痛み出して、三連休を我慢しても一向治らない。車の運転が一番つらくて、机にも10分と向かっていられない。右肩というか、その下の背中というか、痛いというか凝りというか。連休明け火曜日が父の受診の日だったので、ついでに診てもらうと炎症ということで痛み止めと湿布を出してもらい、午後は行きつけの整体でいつもより30分多くかかったが、全く和らぐことがない。鍼は好きではないが、翌々日にはS鍼灸医に行き、この日ランニング後に血尿が出たので、このことと肩の痛みの因果関係を疑い、翌日には半日また休んで坂町病院の泌尿器科に。そしてこの日の四時には村の診療所に行く。週を越して月曜日には最後の望みとばかりに普段馬鹿にしている電気治療をモットーにしているAクリニックにまで、藁にもすがる気持ちで向かったのである。一週間6回受診、それだけ辛かったのだが、全く改善せず、痛くなってから二回目のクライミングの時、ビレイで上を見上げる時が一番痛いので、六人中二人の医師が見立てたように首の骨が神経を圧迫することからくる肩の痛みだと初めて実感した。ただ、そう診断した両先生は注射をし、痛み止めの錠剤と湿布を出しただけ、方や姿勢を正すこと、方や電気を掛けていきなさいと、なにか根本的な解決策でないようなので、深刻な痛みと乖離を感じていたのである。クライミングの最中、ビレイしている私がこの苦しみを訴えると、参加者のひとりS教育長が自分もそうだったと言う。やはり車の運転が辛くて、紙の棒に先に柔らかい物を置き、その上に顎を乗せて運転していたと言う。それでどうして治したんですか、と聞くと、いやこれは治らない、慣れるだけだ、という冷酷な答え。どれくらいで慣れましたかと更に聞くと三ヶ月くらいかなとおっしゃる。そんな苦労をなさっていたんですねと言うと、お察しのとおりだという風ににやりと笑われたが、私は喜んで良いのか悲しんで良いのか、複雑な心持でビレイを人に任せた。慢性的腰痛に加えてまたひとつ持病。救いは登山、ランニング、バドミントンには支障ないこと。

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2019年6月28日 (金)

半夏生

 仕事場のTさんが半夏生を花瓶に挿していたので、半夏生の話になった。夏至から11日目、あるいは11日目から5日間を半夏生というらしい。その頃咲くからこの葉っぱの白い花を半夏生というのか、この花が咲く頃だからこの時期を半夏生というのかとそんな話をしていたが、図鑑を繰るうちに、花が地味なので虫を誘うため花のように葉を白くしたため半化粧という説があるのを知って、私はこの説で行くことにした。半夏生という謎めいた言葉に対して、いかにも俗っぽい感じがして、多分こじつけ、後付けの類だが、分かり易い。
 父の二回目の石取りはうまくいって、先生から退院の許可が出た。リハビリを経て、来月中頃には退院できそうだ。
 母親が倒れたのが13年前、父が中心になって介護をし、私は食事だけ。家に居る日は三食作ったが、普段は朝食だけ。母の部屋に運び、父は私と食べていたが、そのうち父の分も母の脇に運ぶようになった。父親の体力が衰えるにつれ、片付けも私がやるようになり、母を施設に預けるようになってからは、空いたベッドに父が寝て、そこに食事を運ぶようになった。
 徐々に衰えて今日に至っている。理想は「ピンピンコロリ」なのだろう。不自由な姿態を見るにつけ、また同じような年齢で元気でいる人を見るにつけ、そう思うが、苦しみが9で、喜びが1でも、生きる力がその1にあるから生きられるのだろう。私の中に罪滅ぼしという気持ちはないけれど、急に亡くなってしまう話を聞くと、徐々に衰えていく父母に付き合えることに感謝している。
 半夏生、夏を半ば生きる、なのか、半ば夏を生きるなのか、夏に生ビールを半分飲むなのか、半夏は懺悔の響きに似て。

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2019年6月14日 (金)

車庫の燕

二階の庇の中のムクドリの雛は巣立って、その鳴き声が煩わせることはなくなった。二羽の燕が車庫で夜を過ごすようになった。バドミントンの壁打ちをじっと見ている。なんだかセロ弾きのゴーシュを思い出す。5月25日の土曜の夕方に父が救急車で坂町病院に運ばれ、月曜日に新発田病院に転院した。原因は総胆管結石で、2㎝もある石が詰まっているという。それが胆管炎を起こしているので、先ず胆管炎を治してから、石を取る。今現在、胆管炎は治って、石を腹の外からレザーのようなものを当てて小さく砕いている。細かく砕いてから取り除く手術になる。石を砕く施術は順調に行けば二回か三回という話だが、2㎝もある大きい石なので、4回したが、まだ目途は立っていない。しかし、見違えるぐらい元気になった。とにかく食欲が出てきた。それだけでも有り難い。
 入院当初、必要な物を揃えるため父の部屋に入ると、この部屋で終日過ごしていたのかと見慣れた部屋を見渡してつくづく思った。元気になってまた戻ってほしいと願った。
 高坪に行って母親の髭剃り、新発田に行って父の髭剃り、火曜日のバドミントンと山に行く日以外は髭剃りに通っている。母はおまえにばかり苦労を掛けてすまないと度々言うが、そんなことを思ったことはさらさらない。自業自得だと思っている。ただその業が父母をも巻き込んだことだけ悔いても悔い切れない。いずれ車庫の燕も来なくなり、壁打ちを見るのはまた犬だけになる。

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2019年3月31日 (日)

黒爪について

 綿野舞さんが語る黒爪の原因について、僕が勘違いしていたので下記のように訂正します。要は大きめの靴が黒爪の原因ということでした。 

練習過多により黒爪はできると以前書いたが、黒爪のベテラン綿野舞さんが来て言うにはピッタリの靴に履き替えたら覿面に治ったと。今までの少し余裕のある靴を止めて、ピッタリの靴にしたら黒爪が治ったと報告があった。つまり黒爪は練習過多というより靴が合わなかっただけのことで、饒舌多弁家の唇の方も饒舌多弁にピッタリ唇が合っているから故障支障が起きないのだと結論を述べていった。練習の賜のような扱いをしていたのでこの結論は少々拍子抜けの感もあるが、黒爪がなくなったのはいずれにせよ喜ぶべきことだ。さて、僕の唯一の黒詰はそののち新しい爪が下に成長していて、ご覧のように回復した。
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2019年3月 1日 (金)

2019年の2月は

2019の二月は旅行で始まった。それに合わせて父も施設で泊まり。しかし、仕事から帰ってその準備をしていると、父のフォーレが例によって詰まって急遽病院に連れていった。胆嚢切除の手術以来、自力で排尿できなくなった父は、自動で排尿する、便利で不便な器具をつけて生活している。しかし、この何ヶ月かそれが詰まることが多く、詰まると陰部が痛みだして猶予がならないので、すぐに新しい物に替えてもらわないといけない。ただ看護師ならだれでもやれることのようで、病院との往復もいれて一時間余で戻れる。
 そういうわけで、寝不足での運転であったが、賑やかな同行者のお陰で眠気に襲われることもなく最初の目的地、埼玉は秩父の宝登山の麓に着いた。今蝋梅が満開の山、私は正々堂々の二回目だ。もし関東に住んでこの山に登ったことがないというのならとても残念だ。登山を趣味とする誰もが槍に登れるわけではないが、関東圏のだれもにその門戸は開かれているのに、自ら閉ざしている環境を恨めしく思うべきかもしれない。
 17()、バトミントンの大会に初めて出た。僕が出たのは団体戦のうち、ダブルス三試合を行う種類で、敗退した予選二試合と交流戦一試合を行い、三戦して二勝一敗だった。デビュー戦にしては大変結構な内容のようだが、特に最初の試合は緊張してミスが多かった。しかし、組んでくれたベテランのアドバイス等収穫は多かったと言っておこう。
 この大会の後一週間、体調を崩してランニングができなかった。突発的に出る痰がらみの汚い咳は二月に入ってから続いていたが、鼻水がひどくなり、腰痛も限度を越えて木曜日の夕方に癒し庵に行った。大会会場が異常に寒かったからかもしれない。週4日は走りたい時期にこうなって、つくづく健康の有難さを思った。苦しい練習に耐えられる体を持つ有難みを思った。一週間休むと元の木阿弥だが、またひとつひとつ積み重ねていくしかないし、それができることを喜ぶ。新潟ハーフはもう三週間後に迫った。
 二月の雪も建国記念日の三連休辺りが最後で、以降は寒さの割に降雪は少なく、続く週は暖かくさえなって、今まだ二月は終わっていないのに、周りの雪の消え具合はまるで三月の体である。
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三十槌の氷柱(秩父旅行)
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24日「薬師山にスノーシューで登る」総勢17名。前々日の金曜日にひとり下見に行って、姥杉から先で道を失ったのがこの急斜面。綿野舞さんに電話して、夏道を教えてもらって助かったが、里山だと甘くみているとこういうことになる。
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 ところで、12月か1月の初めの頃にバドミントンの支柱を台に戻す際、小指を挟んで、爪の中が内出血した。赤くなっていたのが固まって黒くなって、黒い血の部分は爪の成長とともに上に上がって来るだろうと推測していたが、全然動きがなくて、何日か前にふと真ん中から下が膨らんでいることに気づいた。多分、爪の下に新しい爪ができて、上の爪を押し上げているのだ思う。それから何日か経って今日
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爪の最低部がすかすかしているので、ちょっといじってみると、固まった血が粉のように出てきて、隙間ができ、下にはちゃんと新しい爪が成長しつつあった。僕の体でありながら僕の意思と関わりなく維持の運動努力をすることに不思議と感謝の念を抱くものである。







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2019年2月15日 (金)

氷柱

 「ラ・ラ・ランド」という映画をテレビで偶々見たらなかなか寝付けず、翌朝は家周りの除雪の他に防火水槽の除雪当番にも当たっていたので、五時前には起きないといけなかった。この日土曜日は歴史館で一人勤務の日、時々寝不足で頭がぼうとしてくるので外に出る。そして氷柱を折って顔につけてみる。成就しない話なら書けるような気もした。
 夕方近くになるとだんだんと走る気力が失せてくることは前述したが、それを堪えて今月は170キロが目標。つまり過去数年間の二月の中で一番走る二月にすること。30分大体5キロゆっくり走って体を温め、後半のインターバルとかビルドアップとか負荷をかけたメニューに入るのだけれど、その間にトイレに入ると大変驚くことがある。それはズボンから出した陰部が大変冷たいこと。ズボンから引き出したそれは、謂わば氷柱のように冷たい。硬くて長いわけではないが、氷を素手で持った感覚で、大仰でなく、氷柱のように冷え切っていて、手や足の指のように冬山でなぜ凍傷にならないのか不思議に思える。こんな寒い日に走るなんてことは陰部としては迷惑に感じているのかもしれない。
 施設でインフルエンザの患者が出てしばらく面会ができなかったが、この11日に解除された。季節を錯誤し現在と過去が錯綜するのは、何もできず過ごす時間より記憶が蘇る時間や夢の中の方が現実的だからだろう。昨日14日電話があり、またしばらく面会はできないという。ベッドから車椅子に移して一階まで連れてきての面会はできるとのことだが、厄介だ。
 父のフォーレが詰まって、4週間に一度の定期交換があった先月から二度診察時間外に病院に行って交換してもらっている。尿が詰まると陰部が痛むらしく、猶予できないことは分かっているので、すぐ電話して病院に向かうのだが、父親はひどく私を気の毒がっている。しかし、短時間で容易に替えてくれるので、往復一時間、気にすることはない、いつでも言ってくれと慰めたが、ただ、僕が歴史館の一人勤務で動けず、施設に行っている時に詰まると今回のように今度は施設の人に迷惑が掛かる。それも父の重荷だろう。
 中庭の牛の積雪計と軽トラも積雪計に適していることが分かった。
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2019年1月13日 (日)

空模様を見に行くように

 漏れそうなわけでもないのに、トイレに向かう途中でチャックに手を掛けるのは一事が万事、そそっかしい証拠である。便器の前に立って初めてチャックに手を掛ければ良いのに、トイレに入ろうとする辺りから股間に手を伸ばすのは第一にみっともない。行動全般に落ち着きのないことの象徴であろう。今年は便器の前に到着するまで、まるで散策でもするようにゆっくのと歩き、着いてようやくやおらチャックに手をやる。それを目標とする。空模様を見に行くようにトイレに行く。

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2019年1月 5日 (土)

元旦マラソン二位の周辺

「綿野舞」さんのブログでもご紹介いただいたが、元旦の村上マラソンは二位になった。降りしきる雪の中を雪の上を走るという最悪のコンディションで、記録も最低、45分台というのは初めて参加した2008年以来であった。せめて入賞と思って必死に走ったが、意外にも二位、それも一位と一秒遅れであった。こんな悪い記録で一位も二位もないとは思ったが、優勝なんてチャンスはもう無いだろうと思うにつけ、ゴール直前のコーナーのコース取りが悔やまれてならない。
 30日に母が戻り、3日の午後に戻った。その母の三度の食事とおむつ替え、それと除雪、マラソンもあったし、歴史館の4日からの企画展の準備も終えてなかったので年末年始は忙しかった。それでも母を送り歴史館で最後の仕上げを終えて家に戻ってから暇になったので、いっぱいになったドームの練習帳を新しくするついでにこの五年間の年間走行距離を集計して表にしてみた。すると、この二年間の練習量が極端に落ちていることに改めて思い、記録が伸びなくなったのが年齢のせいでなく練習を怠っていたからだと切に感じた。
 家に戻った母は何度もここはどこかと聞いた。訪ねてきた従姉達にも父にも聞いていた。だいぶ悪くなったとそれぞれ思っただろう。
 今朝は珍しく雨で、除雪のため早く起きたが、しなくて良くなったのでこれを記す。

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