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2014年4月29日 (火)

手も歯も立たない壁

  昨晩クライミングの準備をしている時にYが「右の壁は手も歯も立たない」と同じように早めに来て準備を手伝ってくれている人に言った。聞いたような聞き慣れないような、意味は分かるが看過できない言葉なので、「歯が立たないでしょう」と口を挟むと「厳しいー」と笑っていたけれど、黙って聞き流す方がよほど厳しいだろう。でも、後で考えると「手も足も出ない」と「歯が立たない」がごっちゃになって、「歯が立たない」では言い足りなくて「手も足も出ない」気分を足そうとした結果、「手も歯も立たない」と口をついて出た、みたいなことかもしれないと思った。それでもこの日のYは調子が良くて、いつも難儀する「さちえの壁」を難なく越えて結構速く上まで登った。ランニングの成果かもしれない。「手も歯も立たない壁」もそのうち攻略できるだろう。

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2010年3月15日 (月)

ボヴァリー夫人は私です

 目を覆い耳を塞ぎたくなるような事件は多いが、自分は別人種のように語るニュースキャスターの見方であれば、良くて同じ繰り返し。人生大学卒なら、あるいは在学中なら自分の中にその事件を見、当事者を見る。その人は私の放浪する半身だと思えぬ限り、どんな犠牲も無駄になるだろう。これはつまり「すべての人間の行いは私に無関係ではない」とサルトルが言うところ。この言葉、確かMOから聞いたのたが、こんな言い回しだったかどうか。「ボヴァリー夫人は私です」とはちょっと意味合いも違う気もするが、同じ意味でも考えられる。

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2009年2月23日 (月)

感傷的

 私が中学三年の冬、父は出稼ぎに行かず郵便配達をした。雪道を歩いて学校に配達に来た父を級友が見つけ冷やかされたことと、もうひとつ覚えているのは父から聞いた話。Kという、この村でも山奥の集落に配達に回った時、やっと家から外に出てきたようなおばあさんに呼び止められたそうだ。彼女はこれを送ってほしいと言って一通の手紙とみかんをひとつ、拝むように差し出した。もちろん父は快く受け取ったが、礼のつもりでくれたみかんは彼女の手が汚らしかったのでとても食べる気がせず川に捨てたと言っていた。だれに宛てた、どういう内容の手紙だったのか、僕はそれからずっと考えている。父が郵便配達をしたのはこの年だけで、翌年からまた冬になると関東か名古屋の方に出稼ぎに出た。そしてその後何年かして堆朱工芸の下地作りの仕事を始めた。初めは人に使われていたが、結局その機械を買い取って自分でやることになり、それが農業の副業として二十五年くらい続いた。出稼ぎは嫌だとよく言っていたと母から聞いたことがある。出稼ぎほどは金にはならなかったのだろうが、農作業の合間合間と農閑期には早朝から機械を動かしていた。その仕事もやめて何年になるだろう。作業場の片隅には処分しなかった機械が二台か三台残っていて、時々感傷的な気持ちにさせる。休みの日によく配達や集金を頼まれた、あの頃がこの家の幸せな時期だったのかもと。

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2009年1月30日 (金)

具の無い冷やし

 人は自分の経験や境遇でしか物事を考えられない。三浪してようやく大学にうかったとき、高校の時の友達に手紙を書いた。すごいなとかいう返事を期待したが、四つの学部に合格しても実際入学するのは一つだから三つの学部で君が合格したために行けなくなった人がいることになる、というような事が書いてあった。極く田舎の雑貨屋の長男だった彼は、美術の学校に進むことを諦め京都の方の画材屋に勤めながら勉強していた。弟を進学させたことを知ったのは後のことだ。これもその頃、同じアパートに住む同じ年の大学生はカレーなんかを作った時に私を部屋に呼んでご馳走してくれた。たまにはお返ししなければと私は考え、冷やし中華を作ったのだが、その冷やし、当時30円位(今は60円位)のマルチャンのインスタント冷やしラーメンで、私としては当たり前だったのだが、袋に入っている汁とゴマだけを掛けたものだった。彼は一応全部は食べたが「こんななんにも載ってない冷やし食べたの初めて」とだけ言った。私の倍以上の仕送りのある裕福な家の育ち。お店で出てくるような金糸卵とかチャーシューとか、メンマとか鳴門とか、そんな物が載っている冷やし中華を想像して食べに来たのだろう。私もそうだが、人は自分の境遇と経験に縛られて生きている。母の料理もそういうことだ。ご馳走なんて呼べる物は作ったことがなくて、良くて魚、煮物なんて作っても大きな容器に入れて置くだけ。私が今毎朝運ぶような食事を母はたったの一度も作ったことはないが、それは具のない冷やししか作れなかったのと同じ。

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2009年1月14日 (水)

ジャスコのうどん

 高校二年のとき、学校の隣にジャスコができた。そこに90円で食べられるかけうどんがあってお金があるときはそこに行った記憶がある。小説にも書いたような気もするが、僕が人並に成長できたのは小学校四年生から始まって中学三年まであった給食のお陰である。多分もともと家事の嫌いな母は忙しいことと節約を理由に食事の用意に熱心ではなかった。小学校の時は毎朝生卵一個がおかずだったが、ある朝から妹と半分ずつ分けるように言われたことを良く覚えているし、そうやって節約して家を建て替えたあと、中学生の頃の夕食のおかずは同じ集落の雑貨屋から買ってくる鯖の缶詰で、家族6人で二つの缶詰を分け合って食べていた。育ち盛りとはいえ、そんなおかずで何杯も飯が食えるわけはないし、栄養も偏ったのだろう。今から思うとそのためかもしれないが、僕の手はいつもかさかさした油気のない肌で、思春期を迎えた頃だったのでそれが恥ずかしく、苦慮した末液体洗剤(多分「ママレモン」)をクリーム代わりに塗って登校していたこともあった。また、あまり腹が減れば台所のあちこちを探し、ある時パイナップルの缶詰を見つけた。無断でそれを食べる勇気はないし、かといって空腹には耐えられず、二つの小さな穴を缶切で開けて、中の汁だけ飲んで戻しておいたのだが、よほど後になって母がそのパイン缶があったはずだからそれを食べようと言った。汁だけ飲んだことを思い出し、缶に開けた二つの穴を見られないためにすぐ缶を開けると異臭がしてきた。中味は腐っていたのである。母にそう言うと不思議がる風でもなく、そうか随分前に買ったのだから、というような返事だったが、汁を飲みたいために穴を開けたせいで腐ったことに気付いた僕は子供ながらとても情けない思いがした。

  妹の焼き飯

多分これも比較の問題で、前の時代のことを思えば

でも、母の裁量ひとつでもあるのは否めない

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2009年1月12日 (月)

拝啓、M井様

 M山さんのことを僕がどう書いたか忘れましたが、彼の死後ずっと感じているのは、僕が誰のことも分からないまま生きているということです。この感覚は彼の突然の死によってもたらせたことかもしれないし、そうでないかもしれないが、はっきりと意識したのは確かです。人の言葉が十年も二十年も経ってようやく分かる、という感覚もこれに似ています。人一倍の煩悩を抱えた凡庸な人間が凡庸な道を歩めなかった理由はここにあるかも知れないと思っています。

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