個人的な感覚

2013年6月27日 (木)

サラダホープ・ジャガリコ

 中条のスーパーのレジで前の人がサラダホープ一袋だけ持って並んでいた。私と同じ位か少し上か、土木作業員風で、日曜でも仕事だったのか。中条のアコスに酒の量販店があった頃、前の人が鬼殺し1パック(180ml、100円位)だけ持って並んでいるのを見たことがある。やはりなにか哀切な感じを受けた。サラダホープはМさんも大好きで、良く山行に持ってきてくれる。好きだでなく、とっても好きだという人が多いからロングセラーなんだろう。前の人のサラダホープを見たらなにか自分もひどく食べたくなって、戻って取って来ようかとも思ったが、後ろに人が並んでいるので止めた。でも、サラダホープが無性に食べたいという気持ちはスーパーを出るまで消えなかった。
 今スナックで一番おいしいのはジャガリコだ。昔から美味しいとは思っていたが、カロリーが300と高いので、敬遠してしまう。コンビニには必ずあるが、出した手を引っ込めて、我慢しようということになる。でも、ある日ドームの更衣室の棚の中学生の野球バッグの横にジャガリコ一箱が置いてあるのを見て、んー中学生も好きなのかと思ってから、なにかそれまで以上に好きになって、帰りのコンビニでは躊躇なく買うようになった。大会前の体重を気にする時期でも、家までの10分足らずの間に運転しながら一箱全部食べてしまう。これは明らかに他人の嗜好に刺激されるということだろう。
 鬼殺しもロングセラーだ。三十年近く前のSさんとの山行にも持っていった記憶がある。紙パックなので、飲んだ後小さく畳める。
 

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2012年3月26日 (月)

自涜に似て

 物を買うという行為には喜びとともに虚しさもつきまとう。選ぶ時は楽しく、選んでしまった後、虚しいと云った方が正確か。冬山の道具は一切無くて、冬の山に登っていた。高い山には行かないので支障はないし、冬山の道具は夏山の物より一般的に高く、多くは行かない冬のためだけに買うのはもったいないと思っていた。けれども今年はジャケット上下、手袋と買って、この週末には靴も注文した。ジャケットはスキーと兼用ができる。今のスキーウェアはオフハウスで買った物で、上着は気に入っているはいるが大変重く、下は窮屈。手袋はこの冬指が白くなって感覚が失せるようなことが二度三度とあったので、最良の物が欲しいと。夏用の靴は雪の中をずっと歩いていると湿ってくる。湿ってきて足を冷やす。言い訳がましくもっと言えば、いざという時は私一人の問題でなくなることは容易に想像できるからでもある。助けられないようにし助けるために。それで本やネットで色々調べて、機能、値段、重さ等、最も私の山行に相応しいものを選んでみて、それでも糞切れがつかないので、せっかくここまで調べたのだし、また冬が来れば同じことを考えることになるのだしと思って、思い切ってクリックする。そして、その後になにか虚しいような気持ちになるのである。なんだろう、自涜の後の空しさのような。もっと思い切って言えば「雪の降る街を」の三番「だれも分からぬわが心 この空しさを この空しさを いつの日か祈らん」に似て。

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2011年9月22日 (木)

ロマンティック街道

 初日だけは晴れそうだったので雨に打たれて歩くならどちらが嫌か。行程の長い男体山を初日にしたが、雨になるはずの二日目も晴れ、日光は良い所だ。行く前にあれこれした想像は実際に行った時点で雲散霧消するが、それを思い出すのは面白いと思っている。ただ、現実に見た光景、景色は心に強く刻まれるので、それまでの想像を思い出そうとするのはかなり困難だ。時間が経てば完全に現実に置き替えられるので、なるべく早く思い出してみることだ。僕は今、日光ロマンティック街道や白根山に行くロープウェイ、男体山の登り口の二荒山神社、男体山への道程など、行く前に思い描いた像を思い出そうとして、思い出す度ああそうだそうだと現実とのギャップを楽しんでいる。ロマンティック街道だけはどこがロマンティックだったのか、行く前も想像できず実際に往復しても分からなかった。東照宮とか中禅寺とか大変有難い場所に通じる道であるからには昇天とか曼荼羅とかいう名称のモーテル等がロマンティックに林立するのかと思い巡らしもしたが、そういう類は一軒もなく、もしかすると、あの「吹割の滝」の展望台のことだろうか。構えも店番のお二人もロマンティックと云えばそうかもしれない。

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2011年6月20日 (月)

茜色

 天気の良かった日の夕暮の、茜色の夕焼け。その下に民家が連なっていれば一層切ないような気持ちになる。どこにでもある風景なら、ここが和歌山の田舎町でも、大分のどこかでもいい。ここは高知のとある町だと思えば、なんだろう、この切ないような哀愁は。けれども、たくさんのものを捨てなければそこには行けない。簡単に捨てられるものもあるが、多分生涯捨てられないものもある。だから、結局そこには行けないで、一生が終わる。そことはどこか。そこに行っても私の何かが変わるわけでないことは百も承知だが、それでも、行ってみたいという気持ちが止まない。そことはどこか。

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2011年5月28日 (土)

 僕なんかは確かに大きくても高くても人工的な物にはさっぱり興味はなくて、山なんかでもこれは是っ非登らなければならないというのもない。けれども地図を目当てなくめくっていると、どうもひかれるのは岬や島で、これもあまり大きいのは面白くなくて、小さいのやら細いのやらがいい。例えば佐多岬なんかはどうだ。多分30㌔以上も妙に、不自然に細長く伸びて、幅は広い所で五㌔あるかないか、狭ければ二三㌔。場所によっては両側の波が見えるに違いない。こんな自然薯みたいなぼこぼこの細長い所に住む人がやはりいて、普通の生活がある。それを想像すると大変おもしろい。トイレで納得いくまで見れなかったので部屋にもってくるが、または見ないかも。その程度の面白さだが。

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2011年1月22日 (土)

こし餡派

 振込用紙を持ってコンビニに行くと、会計のカウンター前に並べてある大福に目がとまった。「こしあん」という表記を見て思わず手に取り、一個だけ買う。買ってしまえばすぐにでも食べたくて、封を切ろうとした時に雪にハンドルを取られてひやっとする。大福を食べようとしたがために事故を起こしたんでは洒落にならないと思いながら、すぐ食べ終わった。私はどうも徹底的なこし餡派で、もしこの大福がつぶ餡であったなら食指は全く動かなかったのである。大福に限らず、こし餡を使った食品はすべて好物で、つぶ餡なら食べなくてもいい。食べたくない。嫌いというほどではないが、敢えて食べる気にならない。同じ小豆なのに、皮が入っているかどうかの違い、つまり食感だけの違いなのにと思わないでもないが、それだけの違いでもないような気もする。こし餡かつぶ餡かどちらが好きか、僕は聞くことがある。どちらも好きとか、その食べ物によって違うとか、いかにもありそうなどっちつかずの答えは案外と少なくて、少ないというより今までのところ全くなくて、どちらかにきっぱりと答えるのも不思議な気がするが、まあ2対8でこし餡派は少数である。
 車から降りようとすると、大福の粉が落ちて、雪を被ったように服が白くなっていた。

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2010年6月22日 (火)

無知の確認

 どんなに博識でもなんでも知っているわけではない。そう思えるのは、知っている事しか喋らないからだろう。同様にすべての山に登ることはできない。それで自ずと帰納的に頭は働くが、すべてを知っているわけではないという事実は変わらない。
 「いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ」あるいは無知の知。未知の場所は自分の無知を教えてくれる。それがあの感覚に混ざっているひとつかもしれない。

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2010年2月11日 (木)

鯖を読む

 一生懸命(一所懸命と書くのが語源としては正しいらしいが、そう書けば「いっしょ」懸命としか読めない。だから一所懸命と書くのは恥ずかしいし、そう書く人も恥ずかしい。「のど自慢」を見る時のようにこちらが恥ずかしくなる)生きたからといって、それが肯定する理由にならない。僕もある意味一生懸命生きてきたような気もするが、あんまり成長がないので、もしかしてサバを読んでいるんじゃないかと、いくつの時はなにがあってと指を折って数えてみることもある。間違いなく52年は過ごしてきたのである。立松和平氏が死んだ。一度か二度お目にかかったこともあるし、山の月刊誌の連載も読んでいたので驚いたが、62歳だったということ。僕と10歳しか違わない。27の時37だったことになる。ひととなりは知らないが、サバを読んているかと自ら疑うような人生ではなかったと思う。

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荊冠

 荊冠、響きは良いが、僕の意図したのは孫悟空の頭の輪っか。「きんこじ」というそうだ。こちらは響きがあまりに良くないのでやはり荊冠にしておく。

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2010年2月10日 (水)

たとえ言っても

 それは病気なんかで寝ている時に陥る変な感覚で、家の裏を流れる用水の音、雨が降っていれば雨だれの音、夏なら蝉の鳴き声、手が布団に擦れる音までも、いつもより強く大きく聞こえ出す。じっと聴いていると耳を圧迫するくらい大きな激しい音になって私を縷々(るる)悩ませた。一度父に「川の音がおごっでるみでだ」と訴えたことがあったが「心配ない」と言う返事のニュアンスから理解してないのが分かった。頻度は減ったが今も無くなったわけでなく、普通に寝ている時にもそんな風になることがある。子供の時のように怖いという気持ちはもちろん無く、むしろその感覚を確かめるように手を動かして音を出す。いつもなら気にも留めないわずかな音が耳いっぱいに広がって、やはり変な感じ。この感覚は自分独自のものだろうから、多分誰にも伝えられないまま・・・と思ってきた。

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