聞いた話

2012年1月20日 (金)

聞いた話

 曾祖父はいつ頃死んだのかと父に聞いてみた。
 
父に装飾する理由はないので「じさまの父親のことげ」と話し始めた内容をそのまま要約する。大正五年曾祖父は開拓の目的でここに来た。曾祖父とともに来たのは妻と子四人、その子のひとり、祖父は当時16歳だった。自分で百姓をするというのでなく、人を使って開墾して、地主としての生活を目論んできたらしい。最初は十人位の人を使っていた。けれども開墾が思うように進捗せず資金不足となってきた翌翌年の大正七年、大手のK会社が同じように開墾を目的に乗り込んできて、曾祖父はその傘下に入ったのだという。その条件はニ丁分の田圃と間口二間の家屋敷。けれど二町分の約束の方は反古にされ、その土地を得たのは戦後の農地解放のお蔭である。昭和七年生まれの父はその曽祖父の顔を見ていない。だから大正時代に死んだのではないかと言う。その死因は話さなかった。僕も聞かなかったが、話したくなくて話さないというのではなかろう。曽祖父が死んで借金があることが分かった。山から石灰を採取する会社もしていて、その借金であったらしい。祖父は差押えが近付くと、祖母が結婚する時持ってきた家具などを差押えから免れるため祖母の実家に運んだそうだ。祖母の実家は蛇喰という、ここから二、三㌔の女川の対岸にある。借金を返すのに祖父は苦労したと付け加えたが、どんな風に苦労したかまでは言わなかった。知らないのかいう必要がないと思ったかどちらかだろう。

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2011年12月11日 (日)

聞いた話

 私の先祖は大正時代にこの地に入植してきた。それ以前は富山県の入善町に住んでいたそうである。ここに来たのは祖父の父母、つまり曽祖父母と祖父。祖父は隈板内閣の成立した年、確か1898年の生まれのはずだったから、おそらくは成人してから曽祖父とともにここに来たと思われる。曽祖父の記憶はもちろん無いし、祖父からも父からも聞いたことがない。しかし、三十を過ぎてこの村に戻り、勤めた資料館の館長に曽祖父について聞いたことがある。館長は大正6年生まれで、小さい時の記憶だと言うから、大正末から昭和初期の事だろう。曽祖父は帯剣して馬に乗っていたと言う。馬に乗って闊歩している姿が大変威厳があったと言う。私が子孫だからそう言うのかもしれないが、橋の上から愛馬とともに落ちて、それが原因で死んだことは脚色しようもない。当時は柴で橋脚を作る柴橋という、洪水なれば簡単に流されるような橋が上新保と蛇喰の間にも架けられていて、その橋から馬に乗ったまま落ちて大怪我をして、それが元で亡くなったのだそうだ。
 曽祖父がどんな人物であったか推測する材料がもうひとつある。祖父の遺品の中に沢山の文書の類があったが、そしてそのほとんどは祖父が長年その長をした用水組合関係のものであったのだが、その中に曽祖父に関するものも混じっていて、それは裁判についてのものや支払い命令のようなものだった。曽祖父はどうやら開拓や鉱山の権利を買って転売して儲けるような仕事をしていたようだ。ここに来たのもその一環であって、自ら開拓に携わろうとしたかどうか分からない。いずれにせよ、その商売は芳しくなく多額の借金を抱えたまま彼は死に、それを祖父が返済することになったのだろうと推測している。
 昔、髭を生やした曽祖父の遺影が仏壇の上に飾ってあった記憶があるが、今は祖父母の写真しかない。だから曽祖父の聞いた話から、装飾された分を差し引くと、尊大な人間であったが、その最後はあっけなく惨めなものだった、ということになる。

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